1 「好き」の反対は「嫌い」?

「好き」の反意語は「嫌い」である。これは特に問題もなく自明の理かもしれない。しかし、本当に「好き」の反対の意味を持つ言葉は「嫌い」なのだろうか。

 

まず、数直線を用いて好きを表す。+(プラス)で表せる。同様に嫌いは‐(マイナス)と表記できる。ここで、好悪の段階は同一と仮定し数値を100とする。すると好きは+100、嫌いは‐100となる。結果として、符号の変化のみで思いの強さ(絶対値)は変わらない。

 

好きと誰かを思う。嫌いと誰かを思う。両方ともその「誰か」を意識して、存在を認識しているという意味では変わらない。従って、好きの反意語は嫌いという考えは成立しない。

 

数学では‐×‐=+となる。数式ですらこういった変化が普遍的に存在するのならば、もっと複雑であらゆる要素の織り込まれた現実ではどんな変化が生じるのか。

 

好きな人は自然と目で追ってしまう。存在を意識してしまうから。

嫌いな人は自然と目で追ってしまう。気持ちはマイナス方向でも思いの絶対値は好きと変わらないから。嫌いなあの人について、何か良い部分を知ってしまう。それは突然、好きに変わることはないか。

 

思い(絶対値)が変化しないことは何を意味するのだろう。思い(絶対値)が強いということは、感情が強いことに繋がる。プラスの変化は言葉で表すとウキウキ。マイナスの変化はイライラ。プラスの感情の変化は人生をより良いものにするが、マイナスの感情の変化は人生に何をもたらすのか。生きている以上、ヒトは嫌な思いをすることはある。嫌いの克服・超越というプラス変化以外で常に意識して嫌い続ける努力をする価値はあるのか。

 

絶対値の変化を目安に好きの反対を考える。それは「無関心」なのではないかと思う。先ほどと同様に数直線で表す。無関心=関心が無いのだから、表記は0となる。数値として「0」であれば感情の起伏はない。つまり、嫌なこと、嫌いな人を認識して感情を動かさないということ。

 

無関心であれば、嫌いな誰かを認識しない。そもそも嫌うという感情が湧き上がらない。目に映っても誰かの動き・行動に視線が動かない。空気以上に意識しない。唯一することは相手から声を掛けてきたときに感情を交えず、淡々と事務的な対応に終始するのみ。感情の変化を伴わないため、イライラしない。そのため、マイナス感情により精神的な疲れを感じない。

 

但し、事務的な対応すらしないと人間関係が悪化する。何よりも無視と無関心は異なる。

 

嫌い→無関心と対応の変化は何を変えるか。例えば、よくからかってくる嫌な相手(A君)がいるとする。彼を好きになっても嫌いになっても、ある意味で彼の目的は達成されている。それは、子供の頃の好きな女子への男子の対応を見れば納得がいくだろう。無関心或いは知らないから自分を見てくれないことよりも、嫌いであってもこちらに関心を寄せてくれることに意義があるからである。

 

好きも嫌いも感情の変化であるため、感情の発露とも言い換えが可能である。当然、その感情は相手に伝わる。つまり、意識を向けた時点で相手にとって最初の目標は達成している。そして、感情をより強くこちらに向けることで第二、第三の目的も達成されるのである。

 

では、相手のからかいに対して無関心に対応したらどうだろうか。どんなにからかっても動じてくれない。見てくれない。意識を向けてくれない。話しかけても事務的な対応のみ。感情も見せない。悪意を持ってからかう。相手が好きだからからかう。どちらの目的であれ、無関心に対応されることに人は恐怖を覚える。結果として、からかうどころか傍らに寄ることすら相手は拒否するのである。

 

従って、無関心は自身の精神的疲労・苦痛を無くす。相手は勝手に恐れて近寄らなくなる。と一石二鳥の効果が期待できる。

 

つまり、「好き」の反対は「無関心」である。